日本統治時代

1895年の下関条約から1945年までの50年間。 『街道をゆく40 台湾紀行』に登場する後藤新平・八田與一・日本語世代を、年表で覚えるかわりに「6つの問い」で押さえる。 建設と鎮圧が同じ50年に同居していた事実を、人物と事件のかたちで頭に入れておく。

このページで考える6つの問い

  1. Q1. なぜ日本は50年で台湾を「インフラの島」に変えられたか?
  2. Q2. なぜ「阿片漸禁」は禁止より効いたのか?
  3. Q3. 八田與一はなぜ今も台湾で慕われるのか?
  4. Q4. なぜ霧社事件は今も語り継がれるのか?
  5. Q5. 「日本語世代」とは誰のことか?
  6. Q6. 統治の遺産は今も生きているか?

50年間を3期に区切る

以下の問いに入る前に、政策の力点が変わる節目で50年を3期に分けておく。境界の年は研究者により多少前後する。

時期政策の中心主な出来事
武断統治・撫民政策期1895〜1919武力による治安平定、現地調査に基づく漸進的近代化児玉・後藤政治(1898〜)、阿片漸禁・専売制、縦貫鉄道全通(1908)、西来庵事件(1915)
内地延長・同化政策期1919〜1936「内地延長主義」のもと文官総督期、教育・法制を内地に近づける初の文官総督・田健治郎、台湾議会設置請願運動(1921〜34)、烏山頭ダム完成(1930)、霧社事件(1930)
皇民化運動期1937〜1945日中戦争以降の戦時動員。国語常用・改姓名・神社参拝・志願兵新聞漢文欄廃止(1937)、改姓名許可(1940)、陸軍特別志願兵制度(1942)

「同化期」の始点を1915年の西来庵事件後に置く整理もあるなど、境界年には諸説あり。

Q1. なぜ日本は50年で台湾を「インフラの島」に変えられたか?

鍵は、第4代総督・児玉源太郎の下で1898年から民政長官になった後藤新平の方法論にある。 医師出身の後藤は内地の制度を強引に持ち込まず、台湾の慣習・社会構造を徹底的に調査してから制度を設計するアプローチをとった。 これを後藤自身は「生物学の原則」と呼んだ。

後藤新平(民政長官)
後藤新平(1857–1929)。岩手県水沢出身の医師。民政長官として土地・戸口調査、専売制(阿片・樟脳・塩・煙草)、上下水道、縦貫鉄道を進めた。「ヒラメの目を鯛の目に変えることはできない」が口癖。 Photo: Wikimedia Commons
後藤の改革で最初に着手されたのは、立派な庁舎でも軍事拠点でもなく、全島の土地調査と戸口調査だった。 誰が何を持ち、誰がどこに住んでいるかを把握しないかぎり、税も警察も衛生政策も動かないという発想。 この基礎データが、後の財政自立・治安平定・インフラ投資すべての土台になった。

財源は専売制(阿片・樟脳・塩・煙草)と地租で固め、土木では縦貫鉄道(基隆〜高雄、1908年全通)と港湾・上下水道を進めた。 台湾総督府の財政は1905年に内地からの補助金から自立したとされ、これは植民地経営として異例の速さである。 建設の足場は「武力で治安を取った後、調査で実態を掴み、専売で財源を作る」という後藤の3点セットで作られた。

Q2. なぜ「阿片漸禁」は禁止より効いたのか?

清朝期の台湾には大量の阿片吸引者がいた。後藤新平は治安と衛生の両面でこれを放置できなかったが、 いきなり禁止すれば密売と暴動を招くと判断した。そこで打ち出されたのが阿片漸禁政策である。

阿片を総督府の専売とし、登録した吸引者にだけ販売する。 新規登録は原則認めず、価格を段階的に引き上げて経済的に追い込む。 既存吸引者の自然減を待ちながら50年かけてゼロに近づけるという、当時としては驚くべき長期計画だった。

この方法は密売を抑え、治安維持と財源確保を両立した点で評価された一方、 「植民地政府が阿片で稼いだ」という批判も常につきまとう。 ただし「禁止」だけを掲げて失敗した同時代の他地域と比較したとき、漸禁が効いたのは 登録者を「数えられる対象」に変え、新規流入を制度で遮断したからだ、と整理されることが多い。

Q3. 八田與一はなぜ今も台湾で慕われるのか?

石川県金沢出身の土木技師・八田與一は、東京帝大土木工学科を出て1910年に台湾総督府土木部に赴任した。 1920年から10年がかりで南部の嘉南平野に烏山頭ダムと用水路網「嘉南大圳」を建設し、1930年に完成させる。

八田與一
八田與一(1886–1942)。金沢出身の土木技師。烏山頭ダムを設計・指揮し、嘉南平野15万haを灌漑農地に変えた。1942年に乗船がフィリピン沖で米潜水艦に撃沈され戦死。 Photo: Wikimedia Commons
烏山頭ダム(嘉南大圳の水源)
烏山頭ダム。完成当時は東洋一の規模で、嘉南平野を「米・サトウキビ・雑穀」の三年輪作灌漑地に変えた。今も湖畔に八田の銅像と墓がある。 Photo: Wikimedia Commons
八田は日本人技師と台湾人技手を同じ社宅・同じ給与体系で扱った。 殉職者の慰霊碑にも日本人・台湾人を分け隔てなく刻んだ。 植民地下でこの態度は珍しく、戦後の国民党時代に銅像が一時撤去されかけても、 地元住民が隠して守った逸話まで残る。慕われ続けるのは事業の大きさだけでなく、現場での扱いの平等さによる。

八田は1942年、フィリピンへの渡航中に乗船が米潜水艦に撃沈されて戦死、妻の外代樹も終戦後に烏山頭ダムの放水路で投身自殺した。 二人の墓は今も湖畔にあり、毎年5月8日に慰霊祭が行われている。 李登輝・馬英九・蔡英文ら歴代総統がこの慰霊祭に出席または献花してきたことが、 この人物が現代台湾の政治的立場を越えて尊重されていることを示している。

Q4. なぜ霧社事件は今も語り継がれるのか?

1930年10月27日、台中州能高郡霧社(現・南投県仁愛郷)で、セデック族マヘボ社頭目モーナ・ルダオを中心とする 6社約300人が、霧社公学校の連合運動会を襲撃した。日本人・台湾人計130余人が殺され、総督府は 軍・警察に加え毒ガスと航空機まで投入して鎮圧した。モーナ・ルダオは山中で自決したとされる。

霧社事件の現場写真
霧社事件直後の現場。1930年10月27日、連合運動会の会場が襲撃され、日本人・台湾人計130余人が殺された。 Photo: Wikimedia Commons
翌1931年には収容所に集められたセデック族が、総督府の黙認下で他部族の襲撃を受ける「第二次霧社事件」が起き、生存者はさらに半減した。 20世紀の植民地史でも極めて重い事件で、これを境に総督府は理蕃政策の見直しを迫られる。 魏徳聖監督の映画『セデック・バレ』(2011)が国際的に知られ、原住民史の象徴として再評価が続く。

霧社事件が今も語り継がれるのは、(1) 山地原住民が「皇民化」される直前に最大規模の武装抵抗を起こしたこと、 (2) 鎮圧手段の苛烈さ(毒ガス使用は当時も国際法上問題視された)、 (3) 戦後の中華民国政府が「抗日英雄」としてモーナ・ルダオを公式に顕彰したこと、 この3つが重なるためである。台湾の20元硬貨にはモーナ・ルダオの肖像が刻まれている。

Q5. 「日本語世代」とは誰のことか?

1945年までに台湾で初等・中等教育を日本語で受けた人々を指す。 家庭内の母語は台湾語(閩南語)・客家語・原住民諸語のままだが、 読み書き・抽象的思考・教養の基盤に日本語を持つ世代のこと。

李登輝(中華民国第7・8代総統)
李登輝(1923–2020)。日本統治期に旧制台北高校・京都帝大農学部で学んだ。司馬遼太郎との対談「場所の悲哀」で「22歳までは日本人だった」と語った代表的な日本語世代。 Photo: Wikimedia Commons
最も象徴的なのが当時の総統・李登輝(1923〜2020)。 1942年に京都帝大農学部農業経済学科に進学し、戦後の対談で「22歳までは日本人だった」と語った。 司馬遼太郎が『街道をゆく40』で対話している相手の多くがこの日本語世代であり、 戦後の北京語強制で「読み書きの言語を失った」世代でもあった。

この世代は戦後、国民党による「国語政策」(北京語の強制)と衝突する。 二・二八事件と白色テロを経て、日本語で書かれた日記・著作はタブー化し、長い空白期間に入る。 現代の言語状況については 言語、 戦後の政治史については 戦後と民主化 を参照。

Q6. 統治の遺産は今も生きているか?

日本統治期に作られたインフラ・制度・建築のうち、現代台湾に骨格として残っているものは多い。 以下は代表的なもの。

台湾総督府庁舎
台湾総督府庁舎(1919年竣工、森山松之助設計)。戦後は中華民国総統府として現在まで使われている。台北の地理的中心にそびえる。 Photo: Wikimedia Commons
  • 縦貫鉄道:1908年に基隆〜高雄が全通。現在の台鉄縦貫線の骨格。明石元二郎の代に海岸線も増設された。
  • 嘉南大圳・烏山頭ダム:1930年完成。今も嘉南平野の灌漑を支える(→ Q3)。
  • 台北帝国大学:1928年に7番目の帝国大学として設立。戦後、国立台湾大学に改称され、現在も台湾最高峰の大学。
  • 総督府庁舎・専売局・台北駅周辺の街区:森山松之助らによる赤レンガ建築群が現存し、総督府庁舎はそのまま中華民国総統府として使われている。
  • 都市・公衆衛生:後藤が招いた英国人技師バルトンらが上下水道を整備し、ペスト・マラリアが激減した。台北の街路網も統治期の都市計画に由来する。
皇民化期(1937〜45)には全島に神社が建てられ、家庭内も日本語に切り替える「国語家庭」が表彰された。 この最終局面は戦後ほぼ消去されたが、総督府庁舎がそのまま中華民国総統府になっているのは象徴的で、 建物・鉄道・大学・水路といった「物」のインフラは政権が変わっても容易には捨てられないことを示している。

遺産を支えた人物として、第7代総督明石元二郎(1864〜1919)も外せない。 在任わずか1年4か月で台湾電力株式会社を設立し日月潭水力発電所計画を始動、縦貫鉄道に海岸線を増設、台湾教育令を改正して台湾人にも帝国大学進学への道を開いた。 歴代総督で唯一、遺言により台湾に葬られた人物である(現在は台北・三板橋の墓地から移転)。

明石元二郎(第7代台湾総督)
明石元二郎(1864–1919)。日露戦争中の諜報工作で知られた陸軍軍人。第7代台湾総督として日月潭発電・海岸線鉄道・教育令改正に着手した。 Photo: Wikimedia Commons

50年の前提を作った清朝末期までの流れは 歴史概観、 戦後の二・二八事件・戒厳令・民主化は 戦後と民主化 へ。

出典・参考