歴史概観

400年の台湾史を、年表で覚えるかわりに「5つの問い」で押さえる。 『街道をゆく40』を読み進めるとき、章の背景が「なぜそうなったか」で頭に入っていると、登場人物の動機まで掴みやすい。

このページで考える5つの問い

  1. なぜ「もともと中国の領土」ではないのか?
  2. なぜ清朝は212年も統治したのに「化外の地」扱いだったのか?
  3. なぜ日本は台湾を50年で「インフラの島」に変えられたのか?
  4. なぜ二・二八事件で本省人エリートが「消えた」のか?
  5. なぜ李登輝は国民党の総統のまま民主化を進められたのか?

通史タイムライン

登場人物がどの時代の話か、まず一目で引けるように。

西暦政権主な出来事・キー人物
〜1624原住民の島オーストロネシア語族(南島語族)が住む。漢人入植は限定的。
1624–1662 (38年)オランダ統治オランダ東インド会社が大員(現・台南安平)にゼーランディア城を築き、南部を拠点化。スペインは北部(基隆・淡水)に一時進出(1626–1642)。
1662–1683 (21年)鄭氏政権鄭成功がゼーランディア城を陥落させ、反清復明の拠点に。3代22年で清に降伏。
1683–1895 (212年)清朝施琅の遠征で鄭克塽が降伏。福建省台湾府として編入。長く「化外の地」扱い。1885年にようやく台湾省設置(劉銘伝)。
1895–1945 (50年)日本統治下関条約で割譲。台湾総督府が設置され、後藤新平の民政改革、八田與一の烏山頭ダム、霧社事件(1930)など。
1945–1987 (42年)中華民国(戒厳令期)国民党政府が接収。二・二八事件(1947)、白色テロ、長期戒厳令(1949–1987)。
1987–現在 (約39年)民主化期蒋経国が戒厳令解除。李登輝が総統に。1996年に初の総統直接選挙。

Q1. なぜ「もともと中国の領土」ではないのか?

中国大陸の王朝が台湾を直接統治したのは、清の212年(1683–1895)と中華民国の80年(1945–)だけ。 それ以前の3千年以上、台湾はオーストロネシア語族の原住民の島だった。漢人がまとまった数で渡るようになるのは17世紀以降である。

台湾の「先住民」は、太平洋全域(フィリピン・インドネシア・マダガスカル・ハワイ・ニュージーランド)に広がる オーストロネシア語族の出発点とされる説が有力。 つまり台湾は太平洋全域への民族拡散の「ふるさと」でもある。

17世紀の大航海時代に最初に台湾を「国家として」統治したのは漢人ではなくオランダ(1624–1662)で、彼らは台南にゼーランディア城を築き、農業移民として福建の漢人を呼び込んだ。 北部にはスペインも一時拠点を持っていた(淡水・基隆)。 この「漢人ではない国家による開発」が、その後の台湾アイデンティティの底流をなしている。

Q2. なぜ清朝は212年も統治したのに「化外の地」扱いだったのか?

清朝が台湾を取った動機は、明の遺臣・鄭成功一族(反清復明)の根拠地を潰すこと。 島そのものを「開発する」発想は最初から弱く、海禁政策の延長で漢人の渡航・入植も制限された。

鄭成功(国姓爺)肖像
鄭成功(1624–1662)。福建出身の海商で母は日本人(平戸生まれ)。1662年にオランダを駆逐し台湾を反清復明の拠点としたが、わずか22年で清に降伏した。 Photo: Wikimedia Commons
清朝は台湾の山地と平地を完全に2つに分けて扱っていた。山地原住民は 「生番(せいばん)」として行政の対象外、漢化が進んだ平地原住民を「熟番」と呼んだ。 島の半分以上が事実上、清の地図にも入っていなかった。

清が本気で台湾を内地化したのは、1874年の牡丹社事件(日本軍が原住民討伐を口実に台湾南部に出兵)以降。 列強の介入リスクを警戒して、1885年にようやく台湾省を独立設置(初代巡撫・劉銘伝)した。 台湾省としての存在はわずか10年で、1895年に日本に割譲される。

Q3. なぜ日本は台湾を50年で「インフラの島」に変えられたのか?

鍵は、第4代台湾総督・児玉源太郎の下で1898年から民政長官になった後藤新平の方法論。 後藤は内地の制度を強引に持ち込むのではなく、台湾の慣習・社会構造を徹底的に調査してから制度を作る「生物学の原則」を掲げた。 「ヒラメの目を鯛の目に変えることはできない」という有名な言葉が残る。

後藤新平(民政長官)
後藤新平(1857–1929)。医師出身。民政長官として土地・戸口調査、阿片漸禁、専売制(樟脳・塩・煙草)、上下水道、縦貫鉄道を進めた。 Photo: Wikimedia Commons
烏山頭ダム(嘉南大圳の水源、台南)
烏山頭ダム(1930完成)。八田與一が10年がかりで設計し、嘉南平野15万haを三年輪作の灌漑農地に変えた。今も湖畔に八田の銅像と墓がある。 Photo: Wikimedia Commons
後藤の阿片政策は 「禁止」ではなく「漸禁」。 阿片を専売にして登録吸引者にだけ売り、新規登録を増やさず、価格を段階的に上げて吸引者を経済的に追い込む。 50年で吸引者をほぼゼロにした、当時としては驚くべき長期計画だった。

一方、原住民への「理蕃」政策は強引で、1930年のセデック族による霧社事件では日本人・台湾人130余人が殺害され、総督府は毒ガスと航空機まで投入して鎮圧した。 「建設」と「鎮圧」が同じ50年に同居していたことが、この時代を単純に評価しづらくしている。 詳しくは 日本統治時代 へ。

Q4. なぜ二・二八事件で本省人エリートが「消えた」のか?

1945年の終戦で日本が引き揚げ、中華民国(国民党)が台湾を接収した。 本省人(戦前から住んでいた台湾人)は当初「祖国復帰」を歓迎したが、すぐに国民党行政の腐敗・インフレ・本省人差別への失望が広がる。 1947年2月27日、台北の闇煙草取締りで女性が暴行されたのをきっかけに、翌28日のデモに憲兵隊が発砲、蜂起は全島に広がった。

二・二八事件記念のモニュメント
二・二八事件の記念モニュメント。事件は戒厳令下で50年近くタブー視され、1995年に李登輝総統がはじめて国家として謝罪した。 Photo: Wikimedia Commons
国民党は大陸から増援を送り、本省人の医師・弁護士・教員・地方議員といったエリート層を狙い撃ちにして連行・処刑した。 日本統治期に育った台湾人知識人の「ひと世代」がほぼ消えてしまったため、戦後台湾は本省人と外省人の知的格差を長らく引きずる。

犠牲者数の推計には幅があるが、1万8千〜2万8千人前後の数字が広く引用される。 二・二八と続く白色テロ(戒厳令期 1949–1987)は、戦後台湾政治を理解する上で避けて通れない原点。 詳しくは 戦後と民主化 へ。

Q5. なぜ李登輝は国民党の総統のまま民主化を進められたのか?

1988年に蒋経国が急死し、副総統だった李登輝が総統職を継承する。本省人がトップに立つのは戦後初。 しかし李登輝は民進党ではなく 国民党の総統 として、国民党内部の長老派と戦いながら、12年かけて段階的に民主化を進めた。これを「静かな革命」と呼ぶ。

李登輝(中華民国第7・8代総統)
李登輝(1923–2020)。日本統治期に旧制台北高校・京都帝大農学部で学んだ農業経済学者出身の本省人。司馬遼太郎との対談「場所の悲哀」では「22歳まで日本人だった」と語った。 Photo: Wikimedia Commons
1991年、李登輝は 「動員戡乱時期臨時条款」 を廃止した。 これは「中華民国は中国共産党と内戦状態にある」という前提で総統に強権を与えていた特別法で、廃止することは 「国共内戦は終わった」と中華民国自身が宣言したことを意味する。台湾が中国本土の延長ではなく、台湾という独立した政治実体になった瞬間。

1996年には台湾史上初の総統直接選挙が行われ、李登輝が54%で当選。 この選挙の直前、中国は台湾海峡でミサイル演習を行い威嚇したが、結果は変わらなかった。 司馬遼太郎が訪台した1993〜94年は、この民主化の助走期にあたる。

出典・参考