埋没原価と機会原価 — 名前は似ているのに、意思決定での役割は正反対
埋没原価と機会原価 — 名前は似ているのに、意思決定での役割は正反対
結論
- 埋没原価(サンクコスト)は、すでに支払って、どの選択肢を選んでも戻らない過去のコスト。意思決定では無視してよい。
- 機会原価(オポチュニティコスト)は、ある選択肢を選ぶことで失う、次善の選択肢がもたらす価値。意思決定では必ず考慮する。
- 「もったいないから続ける」は埋没原価に引きずられた判断、「今のままでいい」は機会原価を見落とした判断。どちらも同じ根から生まれる。
- 老朽設備の更新可否のような投資判断では、すでに払った金額を判断材料から外し、選択肢ごとに変わる金額だけを比べれば、正しい結論にたどり着く。
- 株式の含み損も同じ構造。買値は埋没原価で判断に使わず、機会原価は「その資金を今の有望銘柄に振り向けていたら得られたはずのリターン」で測る。
なぜ混同されるか
「埋没原価」と「機会原価」は、字面も音の響きも近い。どちらも管理会計の意思決定論に出てくる用語で、「費用」という言葉でひとくくりに扱われがちだ。だが2つは正反対の性質を持つ。片方は判断材料から外すべき費用で、もう片方は判断材料に必ず入れるべき費用である。
この違いを取り違えると、実務では2つの失敗が起きる。すでに払った金額が惜しくて損切りできない失敗と、今の選択を続けることで失っている利益に気づかない失敗だ。
埋没原価 — 過去に払って、もう戻らない費用
埋没原価とは、すでに支払い、これから何を選んでもその金額が変わらない過去のコストを指す。
たとえば、5年前に800万円で購入した製造設備がある。この800万円は、設備をこのまま使い続けても、今すぐ買い替えても、金額としてはもう変わらない。すでに支払い済みで、回収不能だからだ。
意思決定の理屈からいえば、この800万円は判断材料にならない。「もう800万円も払ったのだから、まだ使い続けなければ」という感覚は自然だが、それは判断ではなく感情の抵抗にすぎない。
機会原価 — これから選ぶことで、失う価値
機会原価とは、ある選択肢を選ぶことで失う、選ばなかった選択肢がもたらしたはずの価値を指す。
同じ設備更新の例で考える。老朽設備を使い続けるという選択をした場合、新型機に更新していたら得られたはずの生産性向上分の利益を失う。この「失った利益」が機会原価にあたる。
埋没原価が過去に発生し確定した金額であるのに対し、機会原価はこれから何を選ぶかによって、選ぶたびに新しく生まれる。過去の話か、これからの話か——ここが最初の分かれ目になる。
具体例① — 老朽設備を更新すべきか
数字で確認する。5年前に800万円で購入した製造設備が老朽化し、更新するかどうかの判断を迫られているとする。新型機の導入コストは600万円、生産性向上によって年間180万円の増益が見込める。
ここで判断すべきなのは、800万円ではない。据え置く場合と更新する場合とで、これから変わる金額だけだ。
据え置けば、追加の支出はゼロだが、増益もゼロ。5年間の増分利益はゼロのままになる。更新すれば、600万円の投資に対して年間180万円の増益が5年間続き、合計900万円。差し引き300万円の増分利益が残る。
800万円は、据え置いても更新しても同じ金額のままなので、この比較には登場しない。比較すべきは「更新コスト600万円」と「据え置くことで逃す5年間900万円の増益」――つまり機会原価――の2つだけだ。
具体例② — 含み損の銘柄を売れない判断
株式投資でも同じ構造が起きる。買値100万円で保有している銘柄Aが値下がりし、時価80万円(含み損20万円)になっているとする。「もう20万円も評価損が出ているから、戻るまで待ちたい」という感覚は、埋没原価に判断が引きずられている状態だ。買値100万円は、今日売っても、持ち続けても、もう変えられない過去の数字である。
この20万円の含み損は、ウォーターフォールチャートにすると分かりやすい。買値100万円から現在時価80万円まで、20万円分の段が下に落ちている。この段は、もう起きてしまった過去の結果であり、これから何をしても動かせない。埋没原価とは、この動かせない買値100万円そのものを指す。含み損20万円自体を埋没原価と呼ぶのはやや不正確だが、「動かせない過去の数字に判断が引きずられている」という意味では、この20万円がまさに埋没原価の呪縛の象徴になる。
ここで判断材料になるのは、買値ではなく「今、銘柄Aに置いたままになっている80万円」の使い道だ。日本の上場銘柄は3800社を超える。その中には、以前とは状況が変わり、今の時点で有望に見える銘柄Bがあるかもしれない。銘柄Bに乗り換え、1年後に90万円まで伸ばせる見込みなら、上乗せ分の10万円が機会原価にあたる。銘柄Aを持ち続けるという選択は、この10万円を毎日あきらめ続けているのと同じ意味を持つ。
判断に迷ったら、「今日、現金80万円を新しく手にしたら、それで銘柄Aを買うか」と自問するとよい。答えがNoなら、持ち続ける理由は「もう買ってしまったから」以外にない。それは埋没原価だ。
含み益は早く確定させたがり、含み損は先延ばしにしたがる傾向には「処分効果」という名前がついている。買値という埋没原価に判断が引きずられる、行動ファイナンスでよく知られた癖だ。
なお、実際に売却して損失を確定させると、機会原価とは別に、譲渡損失の損益通算・繰越控除という税務上の論点も乗ってくる。これは売却によって初めて生まれる判断材料であり、機会原価の話とは別軸として区別しておきたい。
実務でのチェックポイント
クライアントの投資判断・撤退判断に助言するときは、次の2点を分けて確認するとよい。
- すでに払った金額に、判断がすがっていないか。 「もう投資したから」「今さら変えられない」という理由が出てきたら、それは埋没原価にすがった判断かもしれない。その金額を差し引いても、なお同じ結論になるかを確かめる。
- 「今のままでいい」という選択が、何を失っているかを言葉にできるか。 現状維持にも機会原価は発生する。金額にできなければ、少なくとも何を失っているかは説明できるようにしておく。
埋没原価は忘れてよい。機会原価は、選択肢の数だけ存在する。この2つを取り違えないことが、意思決定を数字で語るときの最初の一歩になる。