教養とは「お金を使わずに心を満たす能力」— 賢者たちは2300年前から同じことを言っていた
教養とは「お金を使わずに心を満たす能力」— 賢者たちは2300年前から同じことを言っていた
X(旧Twitter)でこんなポストが流れてきた。
教養がないと「刺激」でしか心を満たせない。酒、タバコ、パチンコ、買い物。金がかかるのに穴は広がる。教養があると「味わうこと」で満たせる。読書、音楽、美術館、散歩、コーヒー。金はかからないのに、心は満ちていく。教養とは「お金を使わずに心を満たす能力」のことである。
うまい言語化だと思った。そこで、同じことを言っている人が過去にいないか調べてみた。結論から書くと、これは思いつきの警句ではない。紀元前3世紀のエピクロスから2015年の出口治明まで、時代も土地も違う賢者たちが同じ向きのことを繰り返し語っていた。この記事は、このポストを補強する言葉を8人分集めて、系譜として整理したものだ。
要点は3つ。
- 「刺激で埋める」と「味わいで満たす」は、元手・楽しみの源・繰り返した後の3点で正反対に働く
- この対比は2300年にわたって形を変えながら言われ続けてきた。ポストは古典の再発見である
- 先人たちはポストの一歩先まで言っている。味わう能力は生まれつきではなく、訓練で身につく
「刺激」と「味わい」は逆向きに働く
図1の3つの軸を言葉にしておく。
1つ目は元手。刺激は外から買うものなので、必ず値札がつく。酒もパチンコも買い物も、財布を経由しないと手に入らない。味わいの対象は文庫本、公園の散歩、一杯のコーヒーで、ほとんどタダに近い。
2つ目は楽しみの源。刺激の快感は外から与えられるもので、受け取る側は受け身でいい。味わいの楽しみは対象そのものではなく、対象を面白がる自分の側から生まれる。同じ散歩道でも、街路樹の名前や町の来歴を知っている人と知らない人では、見えているものが違う。
3つ目が決定的で、繰り返した後に何が起こるか。刺激は繰り返すほど慣れて効かなくなり、同じ快感を得るためにもっと強く、もっと高くつく刺激が必要になる。ポストの言う「穴は広がる」だ。味わいは逆で、繰り返すほど解像度が上がり、同じ対象から受け取れるものが増えていく。
賢者たちはこう言ってきた
紀元前3世紀: エピクロス — 「快楽主義」の祖は水とパンで足りた
「エピキュリアン(快楽主義者)」の語源になった人だが、実像は美食家の正反対に近い。エピクロスが勧めた快楽は宴会ではなく、質素な食事、友人との対話、心の平静だった。弟子に宛てた手紙では、自然が求めるものは少なく手に入れやすいこと、水とパンだけの食事でも快は満ち足りることを説き、贅沢な食事はたまにしか味わえない者こそ最もよく楽しめる、とまで言う(『メノイケウスへの手紙』、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第10巻所収の大意)。
快楽の量は財布ではなく、味わう側の構えで決まる。ポストの主張のいちばん古い形がここにある。
14世紀: 吉田兼好 — 読書は「こよなう慰むわざ」
ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。 — 『徒然草』第十三段
灯りひとつと本があれば、会ったことのない古人が友になる。これ以上ない慰めだ、と兼好は書いた。読書という「金のかからない味わい」の効能を、700年前にここまで短く言い切った文章はほかに思い当たらない。ちなみに兼好がこのとき開いていたのは『文選』や白居易、老子、荘子。兼好自身が「見ぬ世の人」を味わうための教養を仕込んだ上での一文である。
17世紀: パスカル — 人は静かな部屋にいられない
ポストの前半、「刺激でしか心を満たせない」側の分析はパスカルがいちばん精密だ。
人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こる。 — 『パンセ』断章一三九
パスカルはこの断章で、人が狩りや賭博や戦争に向かうのは獲物や賞金そのものが欲しいからではなく、静かな部屋で自分と向き合うことに耐えられないからだと論じた。彼はこれを「気晴らし(divertissement)」と呼ぶ。パチンコ屋のネオンを17世紀に先取りした診断と言っていい。
1851年: ショーペンハウアー — 内面が豊かなら灯りひとつで足りる
『幸福について』(橋本文夫訳、新潮文庫)は、ポストの骨格をそのまま論じた本だ。ショーペンハウアーは、精神の豊かな人を一人で協奏曲を奏でる音楽の巨匠にたとえ、「一人だけで小世界を形成している」と書く。逆に、人を社交や娯楽に駆り立てるものは、その人の内面の空虚と倦怠だと言う。
内面が貧しいほど外の刺激が必要になり、内面が豊かなら独りの時間がそのまま満ちてくる。刺激と味わいの対比を、幸福論として一冊かけて展開した19世紀の実例である。
1861年: J.S.ミル — 快楽には質の差がある
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した愚か者であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。 — 『功利主義』第2章
ミルは快楽を量だけで測る先行の功利主義に対して、快楽には質の差があると主張した。知的な味わいと感覚的な刺激の両方を知っている人は、必ず前者を選ぶというのがミルの観察だ。
見落とされがちだが、ミルはこう付け加えている。高級な快楽を感じる能力はか弱い植物のようなもので、手入れを怠るとすぐに枯れる。味わう能力は、持っているだけでは維持できない。ここでも「能力」の話をしている。
1930年: ラッセル — 興味の幅が幸福の広さ
幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。 — 『幸福論』(安藤貞雄訳、岩波文庫)
ラッセルの『幸福論』は、幸福を才能や境遇の問題ではなく、外の世界に向けた興味の幅と深さの問題として扱う。不幸な人は自分にばかり関心が向いており、幸福な人は外のものごとに関心が向いている。そして興味は増やせる。つまり幸福は、かなりの部分まで後から身につく技術だという処方箋である。
2011年: 國分功一郎 — 楽しむには訓練がいる
『暇と退屈の倫理学』は、パスカルの気晴らし論を現代の消費社会に接続した本で、このポストの実践編として読める。國分は、終わりなく観念を受け取り続けるだけの「消費」と、物をきちんと受け取って楽しむ「浪費・贅沢」を区別した上で、結論部でこう述べる。楽しむことは思考することにつながっており、衣食住も芸術も、楽しむためには訓練がいる(要旨)。
味わう能力は、放っておいて身につくものではない。だが訓練すれば誰でも伸ばせる。ポストの「教養とは能力である」という言い方に、いちばん理論的な裏付けを与えてくれる一冊だ。
2015年: 出口治明 — 教養は人生を面白くするツール
ライフネット生命の創業者で、後に大学学長も務めた出口治明は、教養を「人生における面白いことを増やすためのツール」と定義した(『人生を面白くする 本物の教養』幻冬舎新書)。知識のマウンティング用具ではなく、世界の解像度を上げて面白がるための道具という位置づけは、ポストの「お金を使わずに心を満たす能力」と同じ向きを指している。
ポストの一歩先 — 味わう能力は訓練できる
8人を並べて見えてくるのは、元のポストにない続きがあることだ。
ポストは「教養がある/ない」という状態の対比で書かれている。しかし先人たちの力点はむしろ、その能力が後から育てられることにある。ミルは味わう能力を手入れの要る植物にたとえ、ラッセルは興味を広げよと命令形で書き、國分は楽しむための訓練を勧める。兼好の読書も、エピクロスの質素な食卓も、続けるうちに深まっていく実践だった。
だから「自分には教養がないから刺激に頼るしかない」という読み方は逆で、今日の散歩や一冊の文庫本が、そのまま味わう能力の訓練になる。元手はほとんどかからない。これが2300年分の賢者たちの答え合わせである。
余談: 「学んだことを忘れた後に残るもの」
教養の定義でもうひとつ有名な言葉に触れておく。
教育とは、学校で学んだことをすべて忘れてしまった後に、なお自分の中に残るものをいう。
アインシュタインの名言として広く流通しているが、本人は1936年の講演でこれを「ある人の機知に富んだ言葉」として引用しており(講演録は『Ideas and Opinions』所収)、最初に言った人は特定されていない。名言の出典としては心もとないけれど、「残るもの」の中身をこの記事の文脈で言えば、知識の断片ではなく味わう能力だと読めば、ポストの定義ときれいにつながる。
参考文献
- → 山川出版社ヒストリスト「水と一切れの何もつけないパンさえあれば満足だ。」(エピクロス)
- → 徒然草 第十三段(原文と現代語訳)
- → 『パンセ』を読む 断章一三九「気を紛らすこと」
- → ショーペンハウアー『幸福について―人生論』(橋本文夫訳、新潮文庫)
- → Wikipedia「功利主義論」(J.S.ミル、1861)
- → 大谷大学「きょうのことば」ラッセル『幸福論』の一節(安藤貞雄訳、岩波文庫172頁)
- → 新潮社『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎、新潮文庫)
- → 幻冬舎『人生を面白くする 本物の教養』(出口治明、幻冬舎新書)
- → アインシュタイン「教育とは、学校で学んだことを忘れた後に残るものである」の出典検証