「サラリーマンはプットオプションを保有している」── 金融工学で読み解く「儲かっても給料が上がらない」構造

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日本のサラリーマンの給料は、労働の対価から「業績下振れ保険料」を差し引いた金額だ、と金融工学の言葉で説明できます。会社が儲かっても社員に還元されない、という素朴な疑問の裏側には、業績が悪化しても減給・解雇されない プットオプション を従業員が保有している、という契約構造がある。この記事は、その構造をSVG図4枚で解剖するものです。

Xで見かけた素朴な疑問

先日、Xでこんなやりとりを見かけました。

会社が儲かったら儲かった分の余剰資金って、その儲けを作った社員のわしらサラリーマンに配るのが普通じゃないか?どうして株主とかいう紙切れ買った人間に全振りして還元して、あとの余分は会社の貯金箱にないでいで利益を作ったわしらには2〜3回の飲み会分くらいの還元しかないのかマジで謎なんだが?

これに対する応答:

赤字になった時に賃下げもクビも出来ないので凄い低い水準で固定化されてるわけです。

この応答は、実は金融工学の教科書に書いてある内容そのものです。会社の業績が悪化しても給料が下がらない・解雇されない、という約束は、プットオプション(売る権利)と数学的に等価 な金融契約であり、その保険料(プレミアム)は、業績好調時の上振れ放棄という形で従業員が先払いしている。ここでは、その構造を4枚の図で解剖してみます。

図1:株主と従業員は、同じ会社の業績を「まったく違う傾き」で受け取る

まず、株主と従業員が会社の業績からどう取り分を受け取るかを、1本のグラフに重ねて描きます。

株主と従業員のペイオフ対比。株主は業績に比例、日本型従業員はほぼ水平
図1: 二つの線の差にこそ、従業員が会社と結んでいる「保険契約」の実体がある

株主のリターン線 は、業績に対してリニアに動きます。業績が悪化すれば株価は下がり、破綻すれば元本もゼロ。業績が良ければ配当とキャピタルゲインが伸びる。上限も下限もありません。

従業員(日本型)の取り分線 は、業績に対してほとんど動きません。会社が赤字になっても、減給されない・解雇されない。会社が絶好調でも、賞与は多少増えるだけで、株主のような上振れは受け取らない。ほぼ水平の直線です。

この二つの線の差 ── 業績悪化時に従業員のほうが上にいる部分と、業績好調時に株主のほうが上にいる部分 ── が、次章から解剖する 「保険契約の内訳」 そのものです。

図2:給料 = 労働の対価 − 業績下振れ保険料

「儲かっても給料に還元されない」の裏側では、こういう内訳が起きています。

サラリーマンの給料は労働の対価から保険料を差し引いた金額。上段が業績中立時の本来の労働対価、下段が実際の給料と保険料の内訳
図2: 業績連動の上振れを放棄する形で、「クビにならない保険料」を毎月先払いしている

もし業績連動が完全にリニアな契約(=欧米型・スタートアップ型)に近づけたら、業績中立時に受け取れる「本来の労働対価」は100だとします。

日本型サラリーマンは、この100のうち25を「業績下振れ保険料」として差し引かれ、実際に受け取るのは75になる。差し引かれた25は、業績好調時の上振れを放棄する形で払われている。これが、業績が良い年に株主やCEOに利益が集中し、社員の給料はほぼ横ばいで推移する理由の金融工学的な説明です。

「還元されない」のではなく、還元されないほうを従業員自身が選んでいる(正確には、その契約を締結して働いている)、という捉え方になります。

図3:それはプットオプションと数学的に同じ構造

これを金融工学の教科書スタイルで書き直すと、下のグラフになります。

従業員が保有するプットオプションのペイオフ。業績が行使価格を下回るほどオプションの価値が大きくなる
図3: プットオプションのペイオフは max(K − S, 0)。会社業績が正常水準を下回るほど、従業員が保有する「保護」の価値は大きくなる
  • 横軸: 会社の業績 S
  • 縦軸: 従業員が保有する「保護」の価値
  • 行使価格 K: 会社が正常に回っていられる業績水準

会社の業績 S が行使価格 K を 下回った領域(左半分、In the money)では、「解雇しない・給料を下げない」という約束が実際に価値を発揮します。従業員はこの保護を受け取り、株主はそのぶん損失を追加負担する。

会社の業績 S が K を 上回った領域(右半分、Out of the money)では、この保護はゼロの価値になります。業績が良くても、その恩恵は保護の価値には反映されない ── つまり業績連動賞与としては返ってこない。

これは、行使価格 K の プットオプションのペイオフ関数 max(K − S, 0) そのものです。金融商品として売買されているプットオプションと、日本型雇用契約の下振れ保護は、数学的に同じ構造 をしている。

そしてオプションは、必ず「プレミアム(保険料)」が発生する契約です。従業員はこのプレミアムを、業績好調時の上振れを放棄する形で先払いしている。図2で見た「実際の給料75と保険料25」の内訳は、このプットオプションのプレミアムに相当します。

図4:フロアと上振れの「両取り」は金融工学的に存在しない

ここまでの構造が分かると、雇用モデルの選択肢は「フロア(下振れ保護)」と「キャップ(上振れの取り分)」の組み合わせの問題として整理できます。

3つの雇用モデルの対比。日本型は下振れ保護と上振れ放棄、業績連動型は両方連動、スタートアップは下振れリスクと引き換えの大きな上振れ
図4: 「クビにならない」と「業績連動でガッツリ稼ぐ」を両取りする契約は、金融工学的に存在しない

モデル1: 日本型サラリーマン(プットオプション買い) は、強力なフロアと引き換えに、低いキャップを飲む契約です。業績が悪化しても給料は落ちない代わりに、業績が良くても株主やCEOのようなアップサイドは受け取れない。図3のプットオプションを保有している状態そのものです。

モデル2: 業績連動型(欧米企業) は、フロアと引き換えにキャップを外した契約です。業績悪化時のレイオフ・減給を飲む代わりに、業績連動賞与や RSU(譲渡制限付株式)で好業績時の取り分を大きく取りに行く。保険を買わないぶん、株主と近い取り分曲線を描きます。

モデル3: スタートアップ + 株式報酬(コールオプション買い) は、フロアを完全に放棄した契約です。倒産・早期解雇の実リスクを丸ごと引き受ける代わりに、IPO・M&A で株式価値が数倍〜数十倍に膨らむ可能性を取りにいく。プットではなく、コールオプション を買っている構造になります。

重要なのは、この3つの間に 「フロア強力+キャップ強力」という4つ目のマス が存在しないことです。「クビにならないうえに業績連動で稼げる」という契約は、金融工学的にゼロコストでは組成できない。フロアを強くすれば、その保険料はどこかから調達する必要があり、それは通常キャップの放棄という形になる。

「還元しろ」の議論に金融工学が返す答え

冒頭のXの議論に、この枠組みで返答するとこうなります。

「株主ばかり儲かって社員に還元されない」のは、日本型雇用契約に プット売り の側面が組み込まれているためです。株主は業績下振れ時のリスクを丸ごと引き受ける代わりに、業績好調時の上振れをまるごと持ち帰る。従業員は業績下振れ時の保護を受け取る代わりに、業績好調時の上振れを放棄する。両者は交換取引をしている。

したがって、「還元をもっと」と要求する筋道は2つあります。

筋道A: プットを解約して業績連動型に近づける ── フロアを弱めて(解雇規制を緩和し、給与固定を外して)、そのぶんキャップを外す。業績連動賞与・自社株報酬を増やす。ハイリターン化するが、業績悪化時の減給・レイオフも飲み込む必要がある。

筋道B: プットのプレミアム価格を下げる ── そもそも下振れ保護の価値が過大評価されていないか(業績悪化時のダウンサイドが実は限定的だったら、保険料25を10まで削れる)を検証し、削れた分を給与に還元する。

「フロアはそのままで、キャップも上げてほしい」は、金融工学の枠組みでは 無償で保険料を上げるという意味不明な要求 になってしまう。もしそれを主張するなら、「なぜフリーランチが可能なのか」の追加ロジックが必要です(例: 情報の非対称性、労働市場の摩擦、行動経済学的な認知バイアス、などを前提に置くと、部分的に可能な議論はできます)。

まとめ

日本型サラリーマンの給料は、労働の対価そのものではなく、「労働の対価 − 業績下振れ時にクビにならない保険料」の残余として決まる。

  • 図1: 株主のリターンはリニア、従業員はほぼ水平 ── 両者の線の差が保険契約の実体
  • 図2: 給料 100 のうち 25 は業績下振れ保険料として先払いされている
  • 図3: それはプットオプションのペイオフ max(K − S, 0) と数学的に同じ構造
  • 図4: 下振れ保護と上振れの両取りは、金融工学の枠組みでは存在しない

「会社が儲かってるのに、なぜ社員に還元されないのか」という素朴な疑問は、こう言い換えられます: 「儲かった時に還元しない代わりに、赤字になった時に減給・解雇されない、という契約を毎月更新している」 ── 契約通り、というのが金融工学の答えです。

その契約が良い契約かどうかは、別の議論になります。プットオプションの価格(=保険料)が適正かどうか、フロアの厚みとキャップの薄さのトレードオフを別の組み合わせに変える余地はあるか。金融工学の枠組みは、その議論を「還元しろ/しないの単なる感情論」から「オプション価格の再交渉」というレベルに引き上げます。