そろばんからマイクロプロセッサへ
前講(第10講「オートメーションの夢」)では、なぜ人は計算という作業を機械に任せたがるのか——という 動機の話をしてきた。ここまでの講で、リレーから論理ゲートを組み、加算器を作り、記憶を持たせ、 ついにはコンピュータと呼べるものを組み立ててきた。ではその一方で、 現実の歴史では、実際に何が作られてきたのか。 この講は、そろばんと機械式計算機から始めて、バベッジの解析機関、ホレリスのパンチカード、 リレー式コンピュータ、真空管、トランジスタ、集積回路を経て、最初のマイクロプロセッサに至るまでの 技術史をたどる。バベッジの解析機関から数えても約150年、そろばんまでさかのぼれば数百年にわたる道のりである。 全6セクション・演習28問。回答はブラウザに保存されるので、途中でやめても続きから再開できる。
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1. そろばんから機械式計算機へ — キャリーという壁
有史以来、人は計算を少しでも楽にしようと道具を作ってきた。小石や穀粒で数を数える原始的な習慣が、ヨーロッパでは算盤に、中東では枠と珠のそろばんへと育っていく。掛け算という面倒な作業に正面から取り組んだのがジョン・ネイピアで、対数という道具は掛け算を足し算に置き換えてしまった。やがて歯車を使う機械式計算機が現れるが、そこには誰もが同じ壁にぶつかる——繰り上げ(キャリー)である。キャリーは一見地味な処理に見えて、実は加算器の中心的な問題であり、これをどう扱うかが当時の計算機の完成度を測る物差しになった。
人は生まれつき数を扱う能力を持っているようだが、しばしば助けも必要とする。記数法の発展が、 日用品や財産を管理するための原始的な道具から始まったのはそのためである。多くの文化圏で、人々は 小石や穀粒を並べて数を数えた。この習慣がヨーロッパでは算盤に、中東ではお馴染みの 枠と珠のそろばんへと育っていった。そろばんはアジア文化と結びつけて語られることが多いが、中国へ 伝わったのは西暦1200年頃、商人の手によってだったとされる。
足し算はまだいい。厄介なのは掛け算と割り算である。この面倒に正面から取り組んだ数少ない一人が、 スコットランドの数学者ジョン・ネイピアだった。彼が発明した対数には、 「2つの数の積の対数は、それぞれの対数の和になる」という性質がある。つまり掛け算をしたければ、 両方の数の対数を表で調べて足し合わせ、その和を表から逆引きすればよい。
面倒な掛け算 → 対数を調べる → 足し算 → 表を逆引き → 積
この「掛け算を足し算に置き換える」という発想は、後の対数尺や計算尺にも受け継がれていく。ネイピアは 数字を刻んだ棒を組み合わせて掛け算をする「ネイピアの骨」も考案した。そして1620年頃には、歯車とギアを 組み合わせた最初の機械式計算機が現れる。機械式計算機の歴史でとりわけ重要なのが、数学者であり哲学者でも あったブレイズ・パスカルとゴットフリート・ライプニッツの2人である。
ここで、この講を通じて何度も顔を出すことになる問題に出会う。キャリー(繰り上げ)である。 8ビット加算器を組み立てたときのことを思い出してほしい——キャリービットは、どこまでも煩わしい存在だった。 キャリーは一見大したことのない処理に見えるが、実は加算器の中心的な問題である。キャリー以外のすべてを 行う加算器を設計したところで、完成には程遠い。
だからキャリーをいかにうまく扱っているかは、昔の計算機を評価するときの要点になる。 たとえばパスカルが設計したキャリー機構は、繰り上げの自動処理はできても引き算には対応していなかった。 引き算をするには、第7講(第12〜13章)で扱う手法と同じく、減数の9の補数を足すという手順が必要になる。 普通の人々が日常的に使える機械式計算機がようやく現れるのは、19世紀後半のことである。
歯車のキャリー機構がどう連動するかを、実際に回して確かめよう。「+1」を押し続けると、 一の位が9→0に戻る瞬間だけ繰り上げピンが作動して、隣の桁が1つ進む。009や099まで進めてから 押す1回で、何が起きるかに注目してほしい。
一の位が9→0になる瞬間だけ、繰り上げピンが隣の桁を1つ押し出します。 それ以外のとき、桁同士は独立していて干渉しません。パスカル以来の機械式計算機の設計者たちを 悩ませた「キャリーの自動処理」とは、まさにこの連動機構のことです。後の加算回路のキャリー伝播も、 歯車が電気仕掛けに変わっただけで、原理はこれと同じです。
そろばん・算盤のような数を数える道具の起源はどれか
ジョン・ネイピアが対数を発明した動機として正しいものはどれか
機械式計算機の設計における「キャリー(繰り上げ)」の扱いについて正しい説明はどれか
パスカルの機械式計算機が引き算を直接行えなかったことについて、正しい説明はどれか
3桁の機械式計算機(百・十・一の位、各0〜9)が「199」を表示している。ここから+1を入力すると、表示と繰り上げピンの動きはどうなるか
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2. バベッジの夢 — 階差機関と解析機関
18世紀から1940年代まで、「コンピュータ」とは雇われて計算をする人間のことだった。対数表も三角関数表も人手で作られ、計算・活字組み・印刷のどの段階にも間違いが入り込む余地があった。この間違いを機械の力で根絶しようとしたのがチャールズ・バベッジである。差分法で数表を作る階差機関は1833年に放棄されたが、その先に構想された解析機関は、数を保持する「ストア」と演算を行う「ミル」を持ち、ジャカールの織機のカードを応用してプログラムできる機械だった。エイダ・バイロンが書き残したサイクルの考え方は、現代のプログラミングの基本概念を先取りしている。
18世紀から——実のところ1940年代まで——「コンピュータ」とは、雇われて計算をする人間のこと だった。対数表は常に必要とされ、三角関数表は恒星と惑星に頼る航海術に欠かせなかった。新しい表を出版する たびに、多数の計算者を雇って働かせ、結果をまとめなければならない。そしてこの過程には、最初の計算から 活字組み、最終ページの印刷まで、どの段階にも間違いが入り込む余地があった。
数表から間違いをなくしたい——この望みが、数学者であり経済学者でもあった チャールズ・バベッジの仕事の動機になった。1820年頃から彼は、表を作る過程だけでなく 印刷のための活字組みまで自動化する機械を設計・製作できると確信していた。それが階差機関 である。複数桁の10進数を、10通りの位置をとれる歯車で表現し、負の数は10の補数で扱う——要するに大きな 機械式加算機だった。初期のモデルは設計の妥当性を示し、英国政府から補助金も得たが、機械は完成せず、 バベッジは1833年にこれを放棄する。
しかしその時までに、彼はもっと良いアイデアを得ていた。解析機関である。これは19世紀に 実現可能な範囲で、コンピュータに最も近いところまで届いた設計だった。バベッジの設計には 「ストア」(私たちのメモリの概念に相当する)と「ミル」(算術演算装置) があり、掛け算は足し算の繰り返しで、割り算は引き算の繰り返しで扱われた。
解析機関の最も興味深い点は、ジャカールの織機のカードを改良したものでプログラムできた ことである。ジャカールの自動織機は、金属カードに開けた孔で模様の織り方を制御していた。バベッジはこの 仕組みを借りて、機械の動作そのものをカードで切り替えようとした。
この機械について、ラヴレース伯爵夫人エイダ・バイロンは、ジャカールの織機が花や葉の 模様を織り上げるのと同じように、解析機関は代数のパターンを織り上げられるのだと論じた。さらに彼女は、 繰り返しの回数が2回でも無限回でも、繰り返しという構造そのものにサイクルの本質があると整理し、 サイクルのサイクル——入れ子になった繰り返し——にも言及している。ループと条件ジャンプという、 現代のプログラミングの土台になる概念が、機械が完成するよりはるか前に言葉になっていた。
バベッジが階差機関・解析機関の開発に取り組んだ最大の動機はどれか
バベッジの解析機関における「ストア」と「ミル」はそれぞれ現代のコンピュータの何に相当するか
解析機関がジャカールの織機の技術から取り入れたものはどれか
ラヴレース伯爵夫人エイダ・バイロンが解析機関について指摘した重要な概念はどれか
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3. パンチカードからリレー式コンピュータへ
10年ごとの国勢調査という米国憲法上の要求が、計算機の歴史にもう1つの道標を立てた。1890年の国勢調査を自動化するため、ハーマン・ホレリスは288箇所の孔を持つパンチカードと、作表機・分類機を作った。興味深いのは、288箇所の孔を288ビットとしては使わなかったことである——理論上の最小サイズより、実務上の使いやすさとカードの物理的な強度が優先された。ホレリスが興した会社はやがてIBM社になる。そして1930年代半ば、人々は電話用リレーを使ってコンピュータそのものを作り始める。
米国憲法は10年ごとの国勢調査を求めている。1880年の国勢調査では、年齢・性別・出身国のデータ処理に 約7年もかかった。1890年の調査は10年以上かかりそうだ——そう恐れた国勢調査局は自動化の道を探り、 ハーマン・ホレリスの開発した機械を採用する。ホレリスの計画は、マニラ紙の パンチカードを使うものだった。カードには24列×12個、合計288箇所の孔の位置があり、 国勢調査員が該当する位置に四角い孔を開けることで、調査対象者の特性を示した。
ここまで2進法に慣れた目には、288箇所の孔は「288ビットの情報」に見える。しかし カードはそのようには使われなかった。純粋な2進法なら性別は1箇所で足りる(男性なら 孔を開け、女性なら開けない)はずのところ、ホレリスのカードは性別に2箇所を使った。年齢も、5歳刻みの 範囲を示す孔と、その範囲内の正確な年齢を示す孔の2つを組み合わせ、合計28箇所の位置を割り当てている。 純粋な2進法なら、第4講で学んだとおり7箇所で0歳から127歳まで 表せたはずである。
それでもホレリスの判断は責められない。1890年の国勢調査員に、年齢を2進数へ変換してから孔を開けてくれと 頼むのは無理がある。加えて現実的な理由もあった——2進法ではほとんどすべての孔を開ける場合が 生じ、孔だらけのカードは構造的に弱くなる。理論上の最小サイズより、実務上の使いやすさと カードの丈夫さが優先されたわけである。
1890年の自動化実験は明らかな成功だった。6200万枚のカードが処理され、これは1880年の2倍のデータを 約3分の1の時間で片付けた計算になる。ホレリスは1896年にタビュレーティングマシン社を設立し、これが いくつかの合併を経て1911年にCTR社となり、1924年に社名を変更して IBM社になった。
ホレリス自身は作表機や分類機にリレーを使っていたが、人々が本当にリレーでコンピュータを 作り始めたのは1930年代半ばのことである。使われたリレーは電信用ではなく、電話システムの通話経路制御用に 開発されたものだった。年代記的に最初のリレーコンピュータを作ったのはコンラッド・ツーゼで、 1935年にベルリンの両親のアパートで製作を始め、35mmの映画フィルムに孔を開けてプログラムした。 1937年には、ベル電話研究所のジョージ・スティビッツが電話用リレーを自宅に持ち帰り、 キッチンテーブルの上で1ビット加算器を組み立てる。妻はこれを「Kマシン(キッチンのK)」と名付けた。 ハーバードのハワード・エイケンはIBMとの協力でMark Iを1943年に完成させ、これが表を印刷した 最初のデジタルコンピュータとなって、バベッジの夢をようやく実現した。
ただしリレーは、コンピュータ作りに最適な部品ではなかった。金属片を曲げて動く以上、長く使えば壊れるし、 接点に泥や紙が挟まっても止まる。1947年、Harvard Mark IIのリレーから本物の蛾(が)が 摘出されるという有名な出来事があった。エイケンのスタッフだったグレース・ホッパーは、 その蛾をコンピュータ日誌にテープで貼り付け、「発見されたバグの最初の実例」と記録している。
ホレリスのパンチカードが性別や年齢の記録に、理論上必要な最小限より多くの孔の位置を使った理由はどれか
純粋な2進法だけを使うなら、0歳から255歳までの年齢を表すのに最低何箇所の孔が必要か
ホレリスの発明を起点とする企業の系譜として正しいものはどれか
1930年代に「リレーコンピュータ」を作り始めた人物とその功績の組み合わせとして正しいものはどれか
1947年のHarvard Mark IIにまつわる有名な出来事とは何か
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4. 真空管の時代 — 速さと引き換えの脆さ
リレーは金属片を機械的に曲げて動く部品なので、長く使えば壊れるし、接点に泥や紙が挟まっても止まる。代わりになり得たのが、すでにラジオや電話の増幅で使われていた真空管だった。真空管もリレーと同じようにつなげばAND・OR・NAND・NORのゲートになり、しかもスイッチの切り替えはリレーの約千倍速い。ただし高価で、大電力を食い、大量の熱を出し、やがて焼き切れる。この章ではさらに、計算可能性を切り開いたチューリングと、プログラムコードとデータの両方をメモリに置くという設計思想——後にフォン・ノイマンアーキテクチャと呼ばれる構成——にも触れる。
リレーの代わりになり得たのが真空管である。真空管はもともとラジオとの関連で開発され、 1940年代までに電話の増幅に長く使われていた。ほとんどの家庭にコンソール型ラジオがあり、光り輝く真空管が 無線信号を増幅して音声にしていた。そして真空管もリレーと同様につなげば、AND・OR・NAND・NORの ゲートになる。ゲートの材料はリレーでも真空管でも構わない。ゲートを組み合わせて加算器・セレクタ・ デコーダ・フリップフロップ・カウンタを作れることも、材料を入れ替えたところで変わらない。
第5講で「コンピュータは何で作るか」を考えたとき、選択肢に 真空管が並んでいたのを覚えているだろうか。あのときの答えはリレーだったが、真空管もまた——もう少し後の 時代に——同じ役割を確かに引き受けることになる。
リレーに対する真空管の大きな利点は速度である。真空管はおよそ1マイクロ秒(1秒の百万分の1) でスイッチが入る。リレーはせいぜい1ミリ秒(1秒の千分の1)が限度だから、 真空管はリレーの約千倍速く状態が変わることになる。
ところが興味深いことに、初期のコンピュータ開発では速度はさほど大きな問題ではなかった。当時の機械は 紙テープやフィルムテープからプログラムを読みながら動いており、全体の計算速度はその読み込み速度に 律速されていたからである。テープを読むところで詰まっているなら、スイッチがどれだけ速くても関係ない。
真空管には固有の弱点もあった。高価で、大量の電力を必要とし、大量の熱を出し、そして やがて焼き切れる。ラジオの所有者は真空管の定期交換に慣れていたし、電話システムは冗長性を 持つ設計だったので、切れること自体は受け入れられていた。しかしコンピュータでは事情が違う。真空管が切れても すぐにはわからないことがあるうえ、多数の真空管を使う機械では、統計的に数分ごとに切れる計算になる。 それでも1940年代の新しいコンピュータでは真空管がリレーを代替しはじめ、1945年までに移行は完了した。 リレー式が「電気機械式」と呼ばれたのに対し、真空管は最初の「電子式」コンピュータの基礎になる。
この時代には、ハードウェアと並んで概念の面でも大きな仕事があった。アラン・チューリングは 1937年の論文で「計算可能性」——コンピュータに何ができて何ができないのかを分析する概念——を 開拓し、後にチューリングマシンと呼ばれる抽象モデルを提示した。もう1つの有名な論文は人工知能に関するもので、 そこで導入された機械の知能をテストする方法は、現在チューリングテストとして知られている。
数学者ジョン・フォン・ノイマンはENIACの後継機EDVACの設計を助けた。EDVACの設計者たちは、 コンピュータは内部で2進数を使うべきであり、メモリはできるだけ多く持ち、そのメモリには プログラムコードとデータの両方を保存すべきだと考えた。命令はメモリ内に連続して置かれ、 プログラムカウンタによってアドレスされ、条件ジャンプも許される。この設計は 「プログラム内蔵方式」と呼ばれ、現在ではフォン・ノイマンアーキテクチャとして 知られている。ただしこの構成には代償もあり、命令をメモリから引き出して実行を準備することに多くの時間を 費やしてしまう点はフォン・ノイマンボトルネックと呼ばれる。
真空管がリレーに対して持つ最大の利点はどれか
あるリレー式回路の1回のスイッチ動作に1.5ミリ秒かかるとする。真空管はリレーの1000倍速いという性質を使うと、同じスイッチ動作は真空管では何マイクロ秒かかるか
1940年代初期のコンピュータで、真空管がリレーより高速であることが実際の計算速度にあまり影響しなかった理由はどれか
アラン・チューリングの1937年の論文が開拓した概念はどれか
フォン・ノイマンらが提案した「プログラム内蔵方式」(フォン・ノイマンアーキテクチャ)の要点はどれか
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図で見た3つの電極の働きを、実際に切り替えて確かめよう。フィラメントが陰極を熱し続けていても、 格子の電圧ひとつで電子の流れが通ったり堰き止められたりする——リレーの機械的な接点を、 電圧という「動かない仕掛け」が置き換えたということである。
加熱中
電子を反発
豆電球(外部回路): 消灯
格子電圧 -5V ― 格子の負電荷が電子を押し返すため、電子は陽極に届かず陰極側へ跳ね返されます。回路はOFFのまま。
真空管は、フィラメントが陰極を熱し続けていても、格子(グリッド)のわずかな電圧だけで 電流のON/OFFを切り替えられます。可動部品がないぶんリレーより約千倍速く状態が変わります。 この「小さな入力で大きな電流を制御する」仕組みは、次のセクションで見るトランジスタ (ベースの小さな電圧でコレクタからエミッタへの大きな電流を制御)へ、そのまま受け継がれます。
5. トランジスタの発明 — 半導体という固体のスイッチ
1947年12月、ベル電話研究所で、ほとんど人知れず技術的な突破が起きた。ジョン・バーディーンとウォルター・ブラッタンが作った新しい増幅器は、ゲルマニウムという半導体の板と金箔でできていた——最初のトランジスタである。純粋な半導体は良導体ではないが、不純物を添加(ドープ)すると伝導性を操作できるようになり、N型とP型を作り分けられる。N型2枚でP型を挟んだNPNトランジスタは、ベースにかける小さな電圧で、コレクタからエミッタへ流れる大きな電流を制御する。真空管より小さく、電力も熱も少なく、長持ちする「固体」電子工学の始まりだった。
ベル電話研究所の長年の目標の1つは、電話線を通る音声信号を歪みなく増幅することだった。1912年以来、 ベルシステムは真空管の増幅に取り組み、相当の研究を注いできたが、真空管は大きく、電力を食い、やがて 燃え尽きる。それでも他に適当なものがなかった。
この状況が変わったのが1947年12月16日である。ベル研の物理学者 ジョン・バーディーンとウォルター・ブラッタンが、ゲルマニウム(半導体として 知られる元素)の平らな板と細長い金箔から、別の種類の増幅器を作った。2人は1週間後、これを上司の ウィリアム・ショクリーに見せる。これが最初のトランジスタである。3人は 1956年、「半導体の研究とトランジスタ効果の発見」によりノーベル物理学賞を受賞した。
なぜ半導体なのか。銅や銀や金といった導体は、一番外側の殻に電子が1個だけあり、その電子が容易に原子を離れて 電流として動ける。対する絶縁体はほとんど電気を通さない。ゲルマニウムやシリコンは 半導体と呼ばれるが、これは導体の半分だけ電気を通すという意味ではなく、 その伝導性を様々な方法で操作できるという意味である。半導体の原子は一番外側の殻に電子を 4個持ち、純粋な状態では原子同士が非常に安定した結合を作るため、良導体ではない。
ところが半導体は「ドープ」できる——不純物を添加できるのである。ある種の不純物は、原子間の 結合に必要とされる以上の余分な電子を加える。こうしてできるのがN型半導体(Nは「負」の意味)で、 別の種類の不純物を使えばP型半導体ができる。
2つのN型半導体の間にP型半導体を1つ挟むと、増幅器になる。これが NPNトランジスタであり、3つの部分はそれぞれコレクタ・ベース・エミッタと 呼ばれる。ベースに小さな電圧をかけると、コレクタからエミッタへの大きな電流を制御できる。ベースに電圧が なければ、事実上トランジスタはオフである。真空管で格子(G)の電圧が陰極(K)から陽極(A)への電子の流れを 制御していたのと、役割はぴったり重なる。
いま読んだ「ベースの小さな電圧が大きな電流を制御する」を、実際に切り替えて確かめよう。 ベース電圧をONにするとコレクタからエミッタへ電流が流れて豆電球が点灯し、0Vに戻すと電流が止まって消灯する。 フィラメントの加熱も真空も要らないまま、真空管と同じスイッチの働きが再現できることを確認してほしい。
豆電球(外部回路): 消灯
ベース(B)の電圧が0V ― コレクタ(C)からエミッタ(E)へ電流は流れず、事実上トランジスタはオフです。豆電球は消灯したまま。
| ベース電圧 | コレクタ→エミッタの電流 | 豆電球 |
|---|---|---|
| 0V(電圧なし) | 流れない | 消灯 |
| 小さな電圧をかける | 大きな電流が流れる | 点灯 |
NPNトランジスタは、N型・P型・N型の半導体を重ねただけの「固体」のスイッチです。 ベースにかける小さな電圧ひとつで、コレクタからエミッタへ流れる大きな電流をON/OFFできます。 真空管との対応でいえば、格子(G)の役割をベース(B)が、陰極(K)側をエミッタが、陽極(A)側をコレクタが受け持っています。 フィラメントの加熱も真空も要らないため、真空管よりずっと小さく、低電力で、長持ちします。
トランジスタは「固体」電子工学の始まりを告げた。真空管を必要とせず、半導体という固体から 作られる。真空管よりずっと小さく、必要な電力も少なく、発熱も少なく、そして長持ちする。真空管ラジオを ポケットに入れて持ち運ぶことは考えられないが、トランジスタラジオなら小さな電池で駆動でき、熱くもならない。 最初の商業利用は補聴器だった。1956年にはショクリーがベル研を離れてカリフォルニア州パロアルトに会社を興し、 その後この一帯に半導体会社やコンピュータ会社が次々と生まれて、やがてシリコンバレーと 呼ばれるようになる。
そして肝心なのはここである。リレーから論理ゲートやその他の部品を作ったときに学んだことは、すべて トランジスタにも当てはまる。リレー・真空管・トランジスタは、どれも最初は増幅のために開発されたが、 同じようにつなげば論理ゲートになり、そこからコンピュータを作れる。最初のトランジスタコンピュータは1956年に 作られ、数年以内に真空管は新しいコンピュータの設計から姿を消した。
1947年にベル研究所で最初のトランジスタを発明した中心人物の組み合わせとして正しいものはどれか
半導体を「ドープする」とはどういう操作か
NPNトランジスタの3つの部分の名称と役割の組み合わせとして正しいものはどれか
トランジスタについて正しい説明はどれか
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6. 集積回路からマイクロプロセッサへ
トランジスタはコンピュータを小さく信頼できるものにしたが、作るのを簡単にはしなかった——部品同士を配線する手間は、むしろ小さい分だけ増えている。ならば、よく現れる組み合わせをあらかじめ配線した固まりを作ればいい。1958年から59年にかけて、ジャック・キルビーとロバート・ノイスが独立に同じ考えに到達し、集積回路が生まれた。チップに載るトランジスタの個数は18ヶ月ごとに倍になっていき、1971年、ついにプロセッサ全体が1個のチップに収まる——Intel 4004、最初の「チップ上のコンピュータ」である。そろばんから数えて、長い道のりの一区切りがここにある。
ここで1つ質問がある。トランジスタは確かにコンピュータの信頼性を高め、小型化し、消費電力を減らした。では トランジスタは、コンピュータを作るのを簡単にしただろうか。
そうでもない。より多くの論理ゲートを小さなスペースに詰め込めるようになっても、部品同士をつなぐ心配は残る。 むしろトランジスタは小さくて持ちにくい分、配線はさらに難しくなる。何百万個ものトランジスタを使う機械なら、 手作業の大部分は何百万本もの配線を相互に接続する作業になってしまう。
しかし、繰り返し現れるトランジスタの一定の組み合わせがある。トランジスタのペアはほとんど 常にゲートとしてつながれ、ゲートはフリップフロップ・加算器・セレクタ・デコーダになり、フリップフロップは 組み合わされてラッチやRAMアレイになる。ならば、よくある構成にあらかじめ配線された固まりが あればいい。このアイデアは1952年、英国の物理学者ジェフリー・ダマーがスピーチの中で予言していた。 部品どうしを配線でつなぐのではなく、ひとつの固体のかたまりのまま電子回路として働く装置が作れるようになる、 という見立てである。
実際に動く製品には数年待つ必要があった。1958年7月、テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーが、 複数のトランジスタと抵抗器その他の電気部品を1枚のシリコンから作れると思いつく。その半年後の1959年1月、 フェアチャイルド・セミコンダクターのロバート・ノイスも基本的に同じアイデアに到達していた。 技術の歴史には同時発明が思いのほか多い。特許を巡る法廷闘争はようやく10年後に和解し、 2人は現在、集積回路(IC、「チップ」)の共同発明者と見なされている。
1965年、ゴードン・ムーアは、単一のチップに載せられるトランジスタの個数が毎年2倍になっている ことに気づいた。実際はもう少し遅かったので、後にムーアの法則と呼ばれるようになった予言は 「チップ上のトランジスタの個数は18ヶ月ごとに2倍になる」と修正された。それでも驚くべき速度である。 チップの規模を表す言葉も、この成長に合わせて増えていった——論理ゲート10個未満がSSI(小規模集積回路)、 10〜100個がMSI(中規模集積回路)、100〜5,000個がLSI(大規模集積回路)、 5,000〜50,000個がVLSI(超大規模集積回路)である。
1970年代半ばには、集積回路の作り方に2つの「ファミリー」が優勢になっていた。TTL (トランジスタ-トランジスタ-ロジック)とCMOS(相補型金属酸化物半導体)である。両者には はっきりしたトレードオフがあった。TTLは高速だが電源電圧の許容幅が約5ボルト前後とシビアで、 CMOSは3〜18ボルトと幅が広く消費電力もずっと少ないが、動作は遅い。同じ4ビット全加算器で 伝搬時間を比べても、当時はTTLの方がずっと速かった。もっともこれは1970年代半ばの対比であり、後には低電力版の TTLや高速版のCMOSも登場している。
1970年代初期までに、ICを使ってプロセッサ全体を1枚の回路基板に載せることが可能になった。誰かがプロセッサ全体を 1個のチップに置くのは、もはや時間の問題である。そして1971年、それを実際に製造する栄誉に浴したのは インテル——ノイスとムーアが1968年に興した会社だった。Intel 4004が最初の 「チップ上のコンピュータ」、すなわちマイクロプロセッサである。
4004は3つの指標で特徴づけられる。これらは以降のマイクロプロセッサを比較する基準としても使われるようになった。
- データパス幅 4ビット — プロセッサ内のデータの通り道が4ビット幅しかなく、足し算や引き算は一度に4ビットずつしか扱えない
- 最大クロック速度 108KHz — つないで正しく駆動できる発振器の最大速度
- アドレス可能メモリ 640バイト — 滑稽なほど少なく見えるが、当時のメモリチップの容量には見合っていた
なお、これらの数値はコンピュータの能力そのものを決めるわけではない。4ビットプロセッサでも、 4ビットずつ処理すれば32ビットの数を足せる。あるプロセッサのハードウェアにできて他にできないことがあれば、 他のプロセッサはそれをソフトウェアで実現できる——これはチューリングの計算可能性の論文の帰結の1つでもある。 違いは究極的には速度に表れる。1972年4月、インテルは8ビット・200KHz・16KBメモリという3指標を持つ Intel 8008を発売した。そして1974年、インテルとモトローラの両社が8008を超えるマイクロプロセッサを 発表する。この2つのプロセッサが、世界を変えることになる——次講はそこから始まる。
ジャック・キルビーとロバート・ノイスの集積回路(IC)に関する功績について正しい説明はどれか
あるチップが1990年に4,000個のトランジスタを搭載していたとする。ムーアの法則(トランジスタ数が18ヶ月ごとに2倍になる)にそのまま従うなら、4年半後(18ヶ月の3倍の期間)には何個のトランジスタを搭載していることになるか
TTLとCMOSという2つの集積回路ファミリーのトレードオフとして書籍が説明している内容はどれか
最初の「チップ上のコンピュータ」と呼ばれたIntel 4004について、正しい組み合わせはどれか
あるICチップが2,400個の論理ゲートを持つとする。書籍が紹介する規模分類(SSI:10個未満、MSI:10〜100個、LSI:100〜5,000個、VLSI:5,000〜50,000個)に照らすと、このチップはどれに分類されるか
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