メメント・モリの対句、カルペ・ディエム

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メメント・モリの対句、カルペ・ディエム

山田五郎のYouTubeを見ていたら、画面の下にこう出た。

メメント・モリの対句であるカルペ・ディエム(今日の花を摘め)

背後のモニターには静物画が映っていた。 髑髏、地球儀、積み上げた書物、真珠の連なり、花。 17世紀のオランダとフランドルで量産されたヴァニタス、つまり「空しさ」を主題にした静物画の型である。

カルペ・ディエムという言葉をこのとき初めて知った。 調べていくうちに、対になっているはずのメメント・モリのほうを自分が取り違えて覚えていたことに気付いた。

カルペ・ディエムはどこから来たか

古代ローマの詩人ホラティウスの一句である。 出典は『歌集』第1巻11歌。 紀元前23年ごろに世に出た詩集の一篇で、レウコノエという女性に語りかける形をとる。 その末尾がこうなっている。

dum loquimur, fugerit invida aetas: carpe diem, quam minimum credula postero.

(こう話している間にも、嫉妬深い時は逃げていく。その日を摘め、明日はできるだけ当てにするな)

carpo は果実や花を摘み取る動詞、diem は「日」にあたる語である。 直訳すれば「その日を摘め」になる。

日本語では享楽のすすめとして受け取られることが多い。 だが同じ詩の数行前は「ワインを漉して、短い時間に長すぎる望みを切り詰めよ」という節度の話である。 ホラティウスの詩にはエピクロス派の影響が濃い。 この学派が説いたのは放蕩ではなく、欲望を小さくとどめて心の平静を保つことだった。 摘めと言われているのは、熟したものを、熟したその時に摘む果樹園の動作である。

原文に「花」は出てこない

字幕の訳は「今日の花を摘め」だった。 ところがラテン語の原文に花にあたる語はない。 diem は日であって、それ以上でも以下でもない。

花はどこから来たのか。 一つは、carpo という動詞そのものが花や果実を摘む語だという事情である。 もう一つ、ラテン詩には「乙女よ、バラを摘め(collige, virgo, rosas)」という別系統の一句がある。 4世紀の詩人アウソニウスに帰される『生まれ出るバラ』の一節である。 17世紀イギリスのロバート・ヘリックは「摘めるうちにバラのつぼみを摘め」と歌い継いだ。

カルペ・ディエムとバラの一句は、ラテン語としては別物である。 ただ「今のうちに摘め」という命令の形が重なるため、後世の受容では混ざっていった。 「今日の花を摘め」という日本語は、この混ざったほうを訳している。

メメント・モリを取り違えていた

メメント・モリを「死を忘れるな、だから今を大事に生きよう」という意味だと自分は思っていた。 そう思っている限り、カルペ・ディエムと対句になる理由がわからない。 どちらも同じことを言っているだけになってしまう。

調べてみると、この語は時代によって力点が動いていた。

最初の用例として伝えられるのは、ローマの凱旋式である。 勝利した将軍が戦車で市中を進むあいだ、背後に立つ奴隷が耳元で囁き続けたという。

Respice post te! Hominem te memento!

(後ろを見よ。おまえが人間にすぎないことを忘れるな)

2世紀末のテルトゥリアヌスが書き残した話である。 実際にそう行われていたかについては議論がある。 ここでの主旨は、死後の準備でも今日の享受でもない。 勝利に酔う将軍に向けた「思い上がるな」という戒めである。

memento mori が決まり文句として定着したのは、中世のキリスト教のなかである。 現世は仮のもので、富も美も権力も死の前では意味をなさない。 だから慎み、来世に備えよ。 中世が繰り返した現世軽視の主題と結びついたことで、この語は禁欲と警告の色を帯びた。 山田五郎が対句として並べたのは、この中世的なメメント・モリだろう。 そちらに立てば、カルペ・ディエムは正反対に見える。

一方、ストア派のマルクス・アウレリウスは『自省録』で、いつ死んでもいいものとして一つ一つの行いを整えよと書いている。 こちらはむしろカルペ・ディエムに近い。 現代の自己啓発やストア派の再流行のなかで使われるメメント・モリも、この系譜にある。

つまり、自分の理解が間違っていたのではなかった。 現代の日本語で流通しているメメント・モリはカルペ・ディエムの側に寄った読み方であり、中世の読み方とは別物になっている。 同じ句が、時代ごとに逆向きの結論を運んでいる。

同じ前提から、逆向きの結論へ

二つの句は、反対のことを言っているのではない。 出発点が同じで、そこから引き出す結論が分かれている。

メメント・モリ(中世の読み)カルペ・ディエム
前提人は必ず死ぬ人は必ず死ぬ
結論現世の栄華は空しい。慎み、備えよ明日は当てにならない。今日を摘め
温度禁欲と警告肯定と享受

対義語ではなく対句と呼ばれるのは、このためである。

ヴァニタスには両方が入っている

動画に映っていた静物画に戻る。 髑髏はいずれ尽きる時間を指し、真珠と花と書物と地球儀はこの世の富と美と知を示す。 建前は「これらはすべて空しい」という道徳画である。

ただ、その空しいはずのものを画家は驚くほど精緻に描く。 ヴァニタスの画家は、真珠の照りにも花びらの縁にも筆を惜しまない。 道徳の看板を掲げることで、この世の甘さを描く口実にしているとも読める。 1枚の絵のなかに、慎めと摘めが同居している。

『いまを生きる』が定訳を作った

カルペ・ディエムがこれだけ知られているのは、1989年の映画『いまを生きる』(原題 Dead Poets Society)によるところが大きい。 ロビン・ウィリアムズ演じる教師が、全寮制の男子校の生徒たちを古い卒業写真の前に立たせ、カルペ・ディエムと投げかける場面がある。 写真に写っている生徒は、もう誰も生きていない。 だから今日を摘め、という筋である。

原題は劇中の詩の会の名前であって、カルペ・ディエムとは直接つながっていない。 邦題の「いまを生きる」のほうが、そのまま日本語圏でのカルペ・ディエムの定訳になった。

初めて聞いた言葉を調べるつもりが、知っていたつもりの言葉のほうを調べ直すことになった。

#ラテン語#美術史#ホラティウス#ヴァニタス#山田五郎